たくさんのリソースをどう扱うか

 
当会には、海外から訪れる指導者クラスの経験者がよく顔を出してくれます。そうした交流から得られる情報や視点は、普通の教室を運営しているだけでは得がたいもので、密度の高い内容が自然と集積しています。

詠春拳をオープンマインドで練習できる人たちが、世界的にいかに少数か。そもそもオープンマンドであるとはどういうことか。そして、そのスタンスを持つことがいかに難しいか。この“場”にいると、それが実感されることと思います。

こうした環境は教室としての一つの強みでもあり、かなり贅沢な稽古環境とも言えます。しかし、情報が多く得られるからこそ、それをどう活かすかが重要になります。

以下は、その「武器」をどのように扱い、稽古にどう還元していくかという視点から書いたものです。実地の稽古では、こうした難しい話はあまりしませんが、興味のある方は読み物としてご覧ください。





系統や流派を越えて情報をもたらしてくれる人脈が増えると、今までなかった視点が加わったり、「これは面白い」とか「身につけてみたい」と感じるネタが増えたりもしますね。では、それらの情報をどう扱うべきでしょうか。

 

--- 緩んでいるネジがどこにあるかを自分で把握できない人の手元に、さまざまな種類・メーカー・方式のドライバーが揃っていても、役には立ちません。


手元に100円ショップのドライバーがあっても、マキタの最高級インパクトドライバーがあっても、あるいは何もなくても、問題 ー 緩んでいるネジのありかが見つからない限り、無意味です。


つまり、多くの情報が役に立つのは、自分の課題に対して主体的に取り組んでいる場合に限られます。


「こんなやり方もある」「あんな考え方もある」と、多くの情報を見せられても、ただ「覚えることが多い」「大変だ」で終わってしまうのでは意味がありません。

どんなに貴重な情報資源も、それらは本質的に問題解決の手段に過ぎません。解決すべき問題のないところに、たくさんの解決方法だけがあっても、無意味です。

自分なりの課題を持っている人にとってのみ、こうした情報の豊富な環境は「強み」となります。


情報が多い方が、やるべきことはかえってシンプルに


また、十分な情報には、答えを集約させる力があります。


たとえば歴史を調べるとき。

出土品や記録が少ない場合には、足りない情報を「想像」で補うことによって“さまざまな説”が乱立してしまいます。



しかし検証可能な出土品や、伝来の記述が十分にあれば、あり得ない仮説は自然と排除されていき、見解は次第に集約されていきます。そしてより普遍性や妥当性が高くなります。


同じように、判断材料は多いほど、やるべきことは明確になります。結果として混乱は減り、普遍的な課題と些細な問題の区別もつきやすくなり、やるべきことがシンプルになります。


失敗や手間のかかる作業を避けたくて、「間違った情報をつかまされたくない」と考える人もいます。しかし、間違った情報に触れたことがない人には、それが間違いかどうかを判断する術がありません。そもそも、普通に手に入る情報の半分以上はゴミです。「ゴミではない情報だけを選ぶ」ことは不可能です。


情報には明確な優劣や意味の濃淡があります。その違いを見極めるには、あえて“使えない情報”にも触れる必要があります。そうでないと、成否の基準がどこにあるかがわかりません。また優れた濃い内容の情報だけが使える情報であるとは限りません。

問題解決の実際においては、平凡なつまらない情報が自分の課題を解決するのに最適であることもよくあることです。


だからこそ、いろんな情報に触れることができる環境にあるなら、どのような課題に対し、どのようなソリューションが適しているか、自分自身で検証することが必要です。




※ この記事は、練習の補足として掲載しています。実際の稽古では、こうした小難しい話をすることはほとんどありません。練習自体はシンプルで、どなたでも参加できる内容です。
この教室ならではの環境をより活かしてもらうために、こうした視点があることも一つの参考になればと思います。




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